教えのやさしい解説

 
三障四魔
 三障四魔(さんしょう しま)とは、仏道修行を妨(さまた)げ、人間を悪道に至(いた)らしめる三種の障害と四種(ししゅ)の魔をいいます。
 三障の「煩悩障(ぼんのうしょう)」とは、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)などの煩悩によって仏道修行を妨げる障(さわ)りをいいます。また「業障(ごうしょう)」とは、五逆・十悪などの業によって起こる障りをいい、妻(夫)子などが仏道修行を妨げるような形となって顕われます。そして「報障(ほうしょう)」とは、過去の悪業の報(むく)いによって、国主・父母などが仏道修行を妨げる障りをいいます。
 次に四魔の「煩悩魔」とは、三惑(さんわく)などの煩悩を興盛(こうじょう)させ、仏道を行(ぎょう)ずる者の智慧を奪(うば)う魔をいいます。「陰魔(おんま)」とは、人間の肉体と精神を構成する五陰(ごおん)の調和を乱(みだ)し、仏道に障害を興(おこ)す魔をいいます。「死魔」とは、仏道修行者自身が死によって修行を中断すること、また、修行者の死によって他の者に疑いを起こさせる用(はたら)きをいいます。そして最後の「天子魔(てんじま)」とは、欲界(よっかい)第六天の他化自在天(たけ じざいてん)に居住(きょじゅう)する魔王のことで、第六天の魔王ともいわれます。仏道を成就することを妨害して精気(しょうき)を奪い、それを楽しみとする魔で、あらゆる障魔(しょうま)を起こす最(もっと)も根源的な魔です。
 日蓮大聖人は『兄弟抄』に、
 「三障と申すは煩悩障・業障・報障なり。煩悩障と申すは貪・瞋・癡等によりて障碍(しょうげ)出来(しゅったい)すべし。業障と申すは妻子等によりて障碍出来すべし。報障と申すは国主・父母等によりて障碍出来すべし。又四魔の中に天子魔と申すも是(か)くの如し」(平成新編御書 九八六ページ)
と、三障四魔は様々な姿形となって、仏道修行を妨げると説いています。
 しかし、御本尊の相貌(そうみょう)に明らかなように、三障四魔の根源である第六天の魔王も、事の一念三千の当体である南無妙法蓮華経に具足(ぐそく)された生命です。ゆえに、御本尊を受持し、題目を唱えるならば、第六天の魔王は南無妙法蓮華経の功徳に照らされて浄化(じょうか)し、仏法守護の不思議な用きともなるのです。
 大聖人は『同抄』に、
 「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競(きそ)はずば正法と知るべからず。第五の巻(まき)に云はく『行解(ぎょうげ)既に勤(つと)めぬれば三障四魔紛然(ふんぜん)として競ひ起こる、乃至随(したが)ふべからず畏(おそ)るべからず。之(これ)に随へば将(まさ)に人をして悪道に向(む)かはしむ、之を畏れば正法を修することを妨(さまた)ぐ』等云云。此の釈(しゃく)は日蓮が身に当たるのみならず、門家(もんけ)の明鏡(みょうきょう)なり。謹(つつし)んで習ひ伝へて未来の資糧(かて)とせよ」(平成新編御書 九八六ページ)
と、天台の摩訶止観(まかしかん)を引いて、三障四魔への心構えを御指南されています。すなわち、末法は、「法門を申す」という折伏の行業(ぎょうごう)によって三障四魔が蠢動(しゅんどう)し、仏道修行を妨げるのです。いいかえれば、大聖人の仏法は、折伏という信行の実践と、それにともなう障魔との戦いに、自己の罪障消滅と成仏の直道(じきどう)があるのです。
 私たちは、正法の証(あかし)には必ず三障四魔の出現があることを知ってこれを粉砕(ふんさい)し、また善知識へと転換(てんかん)する強い信心をもって、これからも折伏に精進しましょう。